自分は家でまともに話す気がしない。その分、他のところではうるさいくらい良くしゃべる(笑)
家族の会話をしない。正直、する気がしない。
好きではない、というのが本音である。姉は昔、尊敬していたが、姉ともある時以来まともに会話をする気がしない。
ただ、まったく会話のない冷たい世界ではない。最低限のことは言う。
返事もしたくないくらいなのだが、それをやると向こうは勝手に怒る。それは、自分にとって不快だ。
かと言って、喜ばせるのも良くない。お世辞を言って向こうが喜んでもイライラするのはこっちだ。
つまり、普通に呼びかけられたら答え、こっちからは最低限の質問、話しかしない。これがベストだ。向こうは無口な子だと思ってるのかもしれない。でもそれは大きな間違いだ。
「あなた方と話したくない」と言うとしよう。でもそう言うと向こうは怒る。それは不快だ。なんでかを説明する。その説明を理解してもらうのにも時間がかかる。それは不快だし、第一、言う必要がない。説明を理解すると向こうは怒るだろう。だからといってこっちがどうにかできるものでもない。それも不快だ。
向こうは、言ってどうとなるものでもないからだ。何を言ってもムダと言うことを人生の分岐点の度に痛感しているからだ。また、伝わるのに時間もかかる。それは自分の時間の無駄だ。
不快はエゴだろうか。それはエゴかもしれない。
では、本当に時間の無駄だろうか。「ムダ」という言葉を使うと、どの世界にも必ず「やってごらんよ」とか「何か得るものがあるよ」という輩がいる。違う。もうやっている。その結果、無駄だということが結論として出たのだ。だからこれ以上やっても無駄だ。


子供が自分で選択した道に「やめろ」は不要だ。親は判断材料、適切な「正しい」観点を与える。そして子供が選択した結果に、「なんで」は…まあ、妥協してありだとしよう。
もともと親の観点は教えているのだから、そこに反したときだけ正せばよい。

今まで自分が選択してきた道で間違えたことは多々ある。
しかし、後悔がないと言えばウソになるが、そんなに大きくない。それは、自分で決めたことだし、自分の責任だ。そしてそれは経験になるだろう。万が一結婚して子供ができたら、その子供に自分の経験を伝えることができるだろう。*1
むしろやらないことの後悔の方が大きい。
もちろん、失敗の大きさが後悔を上回ることも出てくるだろう。しかし、それは小中高の時では、ない。その時点ではまずやってみるべきだ。

と、まあ色々ありました。結果、今こんな事態です。
一度しかない人生だから、もっと思い切ってやっても良かったかもな。
しかもこんなこと言ってる奴に限って、ロクな大人にならないからなあ(笑)

*1:経験していないことについて子供の意思決定に関わるとき、親は子供と同じく「未経験」なのだから、その自覚を持って子供の10倍調べるべきだ。